花と私とエネルギー


私が感じたことをメモ書きするスピリチュアル日記です。
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<   2006年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧


美しさを取り戻す

最近女性らしくなったね、と言われることが多い。
というか、「女性性増したね!」といわれることが多い。なんとマニアックな言い方だろう。

女性性の話題はiriseさんのブログやaromahealingさんのブログでも話題になっているのを読んでいて、「偶然の一致じゃのう」と思っていた。
自分でも、「あれ、顔変わったな」と思うくらい美しくなった。

美しくなる、というのは鼻が高くなったり目が急に二重になることではない。なんか輝いている、俗に言う、お肌の艶がいい、ってなことだろうか。

調子よく乙女づいていたが、この2~3日、明らかに美しさに陰りが・・・。
「あれ、女性性減ったか!?」と一瞬思ったが、いやいや待てよ。私はみんなに「女性性増したね」と言われつづけた日々、何をやっていたか?女性性を流す瞑想をしていたか?

いえいえ、やっていたのは自分の内なる輝きを増す瞑想だった。魂とともにあり、魂の輝きを知るように瞑想中に心がけ、日常的にもそれを心がけていたのだった。

そうかそうか、と思い、早速昨日瞑想した。

今朝、美しさが戻っていた。

すばらしい。自分らしさとともにあれば、誰でも美しくなれるのだ。
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by mamemai | 2006-09-28 17:27 | もわわん

2つの意思


「ユングとタロット―元型の旅 」の後ろの方に書いてあった、自由意志と大いなる意思についてのことがずっと気になっていた。

簡単にいうと、私たちはみんな自由意志(自分でなんでも自由に決めることができる)を持っている、という考えの一方で、私たちはみんな大いなる意思のもと生かされているという考えもある。どっちやんねん!ということ。

そういやそうだな、と思いつつ、ブツブツといろいろ考えながらも整理がつかないまま旅行へ。旅行中はそんなことまっったく考えなかったんだけど、トルコでの最終日。一緒に行ったお友達と旅行最後の夜ゴハンを食べているとき。ふと、そんな話になった。
自由意志と大いなる意思の話。

友人が興味深そうだったので、整理がついていないんだけど・・・といいつつ、簡単に説明することにした。で、さっき、上に書いたようなことをしゃべっていたら、私の頭とは別の発信源と思われるところから口を使って勝手に内容をまとめてくれた。(ような気がした)ちなみにチャネリングではありません。たぶん、もともと知っていることだったけど、頭で考えてもわからんことで、しゃべることに集中していて頭で考えてなかったのですんなり言葉が出てきたんだろう。

そこでしゃべったのはこんなまとめ。

「自由意志」
それは私たちがやりたいと思ったことをやれるすばらしいもの。

「大いなる意思」
それは私たちが全体としてあるとき、しばしば、抗うことができない流れとして言われるもの。神の意志などとも言われる。

一見相反するように思えるが、ここで「私」についてもう一度振り返る必要がある。「私」とは誰か。「私」とは、花子や太郎ではなく、あなたや私自身の中にある内なる部分を指す。内なる自己、神、聖なる光などと言われるもの。友人が教えてくれたサイババの言葉に、「全ての人は神である」というものがあった。つまり「私」は「神」なのだ。「私」は「全体」なのだ。

そう考えると、「私」=「神」であるからして、「自由意志」=「大いなる意思」となるワケだ。なーるほど。
自由意志、自由意志というと、利己的な自分の欲による選択をもそれに入れてしまって考えてしまうが、私たち自身が聖なる存在であるとき、私たちの自由意志により決められたことは、全体である神の大いなる意志と同じものなのだ。


・・・しゃべってるうちに整理できるよ、なんてよく言ったものだけど、このときばかりは、しゃべり終わった後、感心して聞いてくれていた友人の前で、私は「・・・つーか、今、勝手に口がしゃべったから」と暴露した。・・・でもくれぐれもチャネリングじゃないんで。私は私のお肉の体の中にちゃんといましたんで...。

みんなも整理がついてなくてもしゃべりだせば、なんとなく整理がつくかも!
あなたの高次の自己ががちゃんとしゃべってくれます。たぶん。(微笑)
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by mamemai | 2006-09-20 12:51 | スピリチュアルな考え事

自分自身を否定するのをやめる

いや~、旅から戻ってきました。時差ぼけもあるのかないのかよくわからず、でも元気です。旅中はとくに大きく心境の変化は感じなかったけど・・・。でも、少しずつ変わっている様子。だって瞑想中眠いもん!(眠くなる⇒解き放てそうな古いエネルギーがいっぱい出てきているとき)・・・時差ぼけ?

ところで、大切な人を失いそうになったりすると、私の場合きゅーっと胸が縮まるような独特の感覚がおこる。この感覚がいったいどんな感情を表しているのか、考えてみた。

まず、事実を受け入れたくないという拒絶感。
そして、まさかこんなことが起こるはずがないという恐れ。
私は一人になってしまうのではないかというさみしさ、不安。虚無感。
などなど。

こんなような気持ちが「きゅーっ」としたところにあるものであるようだが、それらを全部とっぱらって奥の方にあるものをガサゴソあさってみると、出てきたのは、
「自分を受け入れてくれる人がいなくなる」という気持ち。

ということはつまり、私が私であることを認めてくれる人がいなくなる、アイデンティティーの喪失に対する恐れや不安、といった具合だ。

そこでわかってくるのは、誰かに認めてもらって初めて自分が存在することを認めている、のではないか、ということ。私を愛し、ほぼ無条件に受け入れてくれる存在があってこそ、自分自身を存在させておれたのではないか、ということ。

つまり、自分では自分が存在することを認めていない、のではないか、ということ。

端的にいうと、自己否定ということかしら。

手を変え品を変え、同じことを考えてはここに書いているような気がするけど、これが当面の私のテーマなのだろう。自分を自分で認めるということ。

これができれば、いつも一緒にいた人がそばにいなくなる寂しさはあったとしても、いいようのない恐れや不安感というのは克服できるのではないかなぁ。。。

などと思いつつ、ま、とにかくこのテーマで瞑想してみるか、と瞑想し始めると、意識が肉体から出ちゃう出ちゃう(笑)。私にとってはどうやら目をむけたくないテーマのようだ。うーむ。地道にすすめていこう。

自分という存在についてもう少し理解が深まれば、全体という存在についてももう少しわかるかもしれないね。
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by mamemai | 2006-09-12 13:53 | スピリチュアルな考え事